世界で最も幸せなイスラム教徒たち」が彼らの幸福とどう向き合っているのか
Gene A. Bunin July 27, 2018
前書き:この記事の主旨は、1年半以上に渡り著者が考察した、中国本土(中国内地)と中国の新疆ウイグル自治区に住むウイグル人の声、考え、素行を国際社会に伝えることです。登場人物を守るため、彼等が特定されてしまう恐れのある名前、場所、時間、又はそのような情報を意図的に隠し、変更しています。引用した個人の言葉は、記憶に残ったウイグル語の会話から抜き出したものであり、翻訳も加えたため、正確な引用とはなりません。しかし、本質的な内容を維持しており、読者に理解していただけることを願っています。
約1年前、中国内地にあるウイグルレストランをフードガイドにまとめる旅に出ていた。最初にカリム氏のレストランに入ったのもその為であった。この旅で、中国内地の50都市、200軒近くのレストランを取材しましたが、カリム氏が経営するレストランは特に印象的だった。最高に美味しいスパイシーなピラフだけでなく、1~2時間座っていても楽しいほど暖かい人間味があるコミュニティでもあった。カリム氏は素晴らしいホストであった。顧客としばしば交わす会話は時の重い話題に触れながらもユーモアなものであった。
カリム氏のレストランに何度か行ったが、一度、ウイグル人が漢民族の大都市で直面している差別が話題になったことがあった。そこにいた何人かの顧客があげた例は宿泊探しだった。内地のホテル側が空き部屋がないと主張し、ウイグル人訪問者の宿泊を頻繁に拒否していた。ウイグル警察官でさえ宿泊が拒否されたと誰かが笑い話にしていた。複数の言語が話せるカリム氏は、そのほりの深い顔立ちで中東から来た外国人のようだった。そんなカリム氏は、時々ホテルの受付スタッフに英語で話しかけていたそうだ。ホテルのスタッフは空き部屋があるといったものの、宿泊手続きを始めるなかで、彼の“ウイグル族”と印字された身分証明書を見たとたん、空き部屋がなくなり、満室だと言うのが常であった
レストランで私の正面に座ったカリム氏は、中国内で差し迫った軽蔑と人種差別を受けている別のグループ、アフリカンコミュニティの存在も話してくれた。彼によると、中国の地下鉄で起きたある事件で黒鬼と呼ばわれた黒人は、漢民族の相手を殴り返したそうだ。これが国際メディアに報道され、その後の法律への改善につながり差別問題も改善されたと、カリム氏は言った。彼はその後、BBCのような海外メディアと連絡をとる良い方法はないかと私に尋ねた。そうすれば、中国内地にいるウイグル人にとっても同じ改善が得られるかもしれないと。しかし、中国政府に報復される可能性があり、外国のメディアと連絡を取ることが非常に危険と判断しあきらめた。
だが、すぐに明らかになったように、このような「マイルドな」差別は、ウイグル人が抱える問題の中で、取るにも足らずものとなった。カリム氏と私はこの会話をしていた2017年春に、彼の故郷である新疆(1000万人以上のウイグル人が住む)は、すでに中国政府が主張するテロリズムと宗教的過激主義への突然の「全面的な攻撃」の矢先に立たされていた。翌年には、全般的な弾圧が始まり、新疆ウイグル自治区全体が警察国家に変わった。ウイグル人の生活のあらゆる側面が監視され、潜在的に100万人のウイグル人が徐々に強制収容所に収監され、刑務所に投獄され,又は「消えていった」。収容所の存在や収容所内の生活についての証言として、不健康な生活環境だけでなく、規則的な暴力、拷問、洗脳についてもレポートされている。建設工事の入札やそれらに係わる求人情報は、新しい収容所が続々と建設されていることも示していた。中国政府もまた、新疆以外の中国内地や海外に住むウイグル人を故郷に戻るように命令し、彼等を新疆に戻すため惜しまない努力と、その徹底振りを見せた。海外のウイグル人が命令に背かないように、彼等の親や親戚を拘禁したり、人質に捕っていた。
多くのウイグル人にとって2017年の春は、人権、暮らし, アイデンティティ,そして基本的な自由を失う、ウイグル民族が大きく損なわれる期間の始まりであった。カリム氏が後に命を失ったのと同じく、多くの命が失われることになった。
過去にイスラム教徒が多数を占める国々に合法的に訪問していた、或いは住んでいたウイグル人たちが特に危ないグループとされ、このグループに属していたカリム氏は(彼は3カ国に住んでいた)、ある日手錠をかけられ、連行され投獄された。カリム氏のレストランがある近所を最近再び訪れた時にそう聞かされ、その後のことばは、「彼が“長引いた重労働の後に死んだ”」というものだった。
少なくとも、それは出来事を政治的に適切な表現で伝えたのだった。読者の立場によって、彼が国家によって体系的に殺害されたと言った方が適切かもしれない。
あるいは、全てを完全に否定する方が適切かもしれない。
結局のところ、これらの問題について中国に対抗した試みが遭遇したことは、中国政府の断固とした否定であった。2017年の夏、中国政府は(ウイグル人である新疆党委の対外宣伝室(外宣办)副主任のアイリティ・サリイェフ氏(漢字:艾力提·沙力也夫)に,「世界で最も幸せなイスラム教徒は新疆に住んでいる」と特別に述べさせた。そして2018年の初めごろに、中国外務省報道官の華春瑩(ホァチュンイン)が声明を発表し、「“新疆のすべての民族が平和で満足に生きて働いていることと、平穏で進歩的な生活を楽しんでいることは、誰もが見ることができる”」と述べ、ウイグル人への弾圧に対する懸念は、“不当な批判”であり、“中国内政への干渉”であると示唆した。中国は、問題の議論を試みる欧州諸外国の外交的な招待を拒否した。
また、この読者皆さんの目から見て、中国の声明が「正しい」、或いは「情報が知らされてない」、又は「完全な嘘」だと、世界的にひとつの見方になることは直ぐにはないであろう。しかし、誰にも同意してもらえることと言えば、:幸せであるかといった主観的な感覚は、当事者のウイグル人本人たちに話しをさせることが最善の方法であるということである
残念ながら、新疆に関する情報を全く「無」にする為に中国政府が行っている、静かに確実に推し進めている努力を考えれば、ウイグル人の生の声を聞くことは非常に難しい。加えて、多くのウイグル人が強制的に帰郷させられ、或いは親族が人質にされていると、彼らは声をあげることができない。声を上げたものはその親戚が投獄された。他にも、外国人が普通のウイグル人と如何なる会話もできないように、直接又は間接的な措置が中国政府に取られている。特にジャーナリストは非常に厳しい監視下におかれていて、彼らがインタビューしようとするウイグル人の誰もが恐怖のあまり正常に、正直に話せないのが現状である。新疆を訪れた外国人観光客のうち、私が話したことのある大勢は、電車内や、都市間に設置された数多くの検問所で尋問されたことを話していた。2017年の秋にウイグル人の家に足を踏み入れた直後、警察に連れて行かれたことを話してくれた外国人の友人は、「お茶を飲んで4分間、警察で4時間」と揶揄していた。また別の2人の学者は、昔から往来していた町への出入りが拒否され、その理由も説明されてないと話してくれた。新疆の長期滞在者の一人は、2週間尋問されたあげく、中国から完全に追放された。
2018年には、ウイグル人の知り合いと一分以上話をすると、ウイグル人側が警察に尋ねられる危険性があることから、個人的なチャットでさえ、モラルのジレンマに変わってしまった。多くのウイグル人は、自身の安全を懸念し、外国人の友人のほとんどを中国の(高度に監視された)”WeChat”アプリから削除した。より安全な海外SNSアプリは、それを使うために必要なVPNソフトへの繰り返しの取り締まりと新疆住民の携帯電話に政府のスパイウェアが強制的な装着されているため、選択肢から外されていた。海外への電話や海外からの電話も危険な行為となった。
中国警察が行う外国人への尋問では、ウイグル人の友人の氏名や電話番号などの連絡先を尋ねるのが決まりのプロセスになっているようだ。同様に、外国人が中国当局に “新疆”や”ウイグル人”という言葉を口にするだけでも、監視や数時間の尋問を確実に招くことになる。これらの言葉を中国ビザの申請書に書くと、昨年のツアーグループ全てに及んだように、ビザ申請が却下される危険性が高くなる。
私に対しても、中国当局の対応が度を過ぎた。4月下旬、私をカシュガル市から追い出すために、「火災の安全性」を確認する理由で、私が滞在していたホステル全てを閉鎖した。私に宿泊施設を提供する可能性のある他の全てのホテルでも私をブラックリストに載せた。新疆から約4000キロも離れた国際貿易の拠点である義烏市(浙江省中部)に滞在しているウイグル人と私の接触も特別に注意が向けられた。2回に渡り、中国内地の警察は私に “中国の法律に従い”、”悪い新疆人と交流しない”ようにと警告してきた(新疆人:ウイグル人の婉曲な表現)。
あいにくと、私は過去1年半の大半を、新疆で3〜4ヶ月、残りを中国内陸部のウイグルレストランでというように、その“悪い新疆人”の中で過ごしていた。私の記憶では、この期間で約1000人から2000人のウイグル人と話した。その大多数は男性であり、レストランスタッフ、ビジネスオーナー、ビジネスマン、小売商、ストリートフード屋と彼らの家族だった。多くの場合、私たちは政治について話をしなかった。政治は、私の言語学を中心とした研究とはまったく関係のないタブーなテーマだった。私が話をしたほとんどの人が新疆での弾圧の影響を強く受けていて、政治について話す唯一の選択肢は政治の話を全くしないことであった。私たちもそうした。しかし、特にこの数ヶ月間においては、現状の話題になると、タブーである政治の話を彼らから私に持ちかけてきた。
自分が観察し得たものを統合していく中で、私は最終的にウイグル人のために声を上げることができないと認識した。このタスクは、恐怖のない環境でウイグル人自身に任せなければならない。私がここに記すことは、たとえ不完全であっても深い真実が声となって、新疆と中国全土にいるウイグル人たちの現状をいかに読者の方に知っていただくか、その重要なきっかけとなることを願っています。
「我らの“ムード”は最悪の状態だ」
私は、新疆の某都市某通りの某路地にある、鳩のシシケバブとミルクティーが有名な某レストランが特に好きだった。その近辺を訪れる度に、できる限りそのレストランに行くことにしていた。
最後に行ったとき、あまりにもご無沙汰していたので、申し訳なく思いながら店に入った。
「お国に帰られたと思っていましたよ」とオーナーが驚いた様子で言ってきた。
テーブルに座るように私を招いた彼はQRコード印字のナイフを置くとすぐに私の席に加わった。
前回会ってから11ヶ月が経過し、この間多くのことが変わっていた。彼のスタッフの大半となる約10人が南新疆の故郷に強制的に戻され「再教育」や「故郷での逮捕」を余儀なくされた。人手不足に陥いた彼は、友人や親戚の助けに頼っていた。シシケバブとお茶と共に顧客も消え、常に人に溢れていた場所が突然空虚になっていた。何度も顧客が入って来たのを目にしたが、メニューが乏しいのを知って出て行った。オーナーが言うには、ウイグル人のスタッフが非常に不足していて、代わりを見つけることは不可能に近いのだと。
その答えに恐れながらも、私は彼の甥がどこにいるのかと聞いた。昔来ていた時に、彼の甥はしばしば夕食の手伝いをしていた。「彼は刑務所にいる、以前中東の国で1年間過ごしていたからだ。」
「我らの“ムード”は最悪の状態だ」、と彼は打ち明けた。
カシュガルで数ヶ月を過ごした経験から、彼の意図することが正確に理解できた、“我らのムード”とは彼と彼の家族だけでなく、ウイグル人全体を指していた。言いたいことは、これは民族の絶望である。新疆の赤い機械軍団には到底目に映るものではないが、人間の目でみればその絶望が見えてくるものである。彼等の全般的に無気力な姿を、惨めな表情を、彼等の空を見上げる様子をみれば、それが分かる。もっと抽象的に言うと、その圧倒的な重苦しさが空気の中に感じられる。時には、この抑圧と無縁の外国人であるはずの私でさえ、この目に見えない力に圧倒されることを恐れ、外に出ることを躊躇してしまう。サイレンを鳴らした警察のバンは絶え間なく通りを嗅ぎ回る。過去には、私がキャシュガルの街にでると、精神病を患っている知人がいつも声をかけてくるのでした。彼は私に向って走り、握手をし、時にはズボンのチャックが開いたまま、大きな笑顔で、何度も同じ質問を繰り返し聞くのでした。しかし、今の状況は彼をも歪めてしまい、2017年の秋から私に向って走ってくることもなければ、隣を通りすぎても静かにベンチで座ったままであった。最終的に、彼もキャシュガルの街から消えた。
この息苦しいムードは、私が2017年会った多くのウイグル人ビジネスオーナーの率直な悲観的思考からも明白だった。“お元気ですか”と挨拶した人に、自分の苦悩や悩みを伝えるのは、ウイグル人のエチケットに相応しくない。通常は、“元気にやっています”と答えるのが礼儀である。しかし、ますます多くのウイグル人が“それほど良くない、ビジネスは最悪の状況だ”と答えるようになった。昨年、知り合いのツアーガイドと偶然会った時に、一年前に会った時から大分痩せたねと、言いました。
“私たちは皆、この一年で、本当に痩せてしまった!”と彼は返してきた。
同じように中国内地においても、ウイグル人のレストランは現地に溶け込んでいたにも関らず、同じ時期に不況に陥っていった。一回小さな食堂に入った私に、女性オーナーが横になっているところから立ち上がって食事を作ってくれた。私が食事している間、彼女は私が記者かどうか尋ねてきた。そうではないと答えたにも関らず、彼女は家族のことを話し始めた。その話によると、ちょうど数ヶ月前に、彼女等はその都市にいつくかの成功しているウイグルレストランを所有していた。しかし、スタッフの大半が新疆に強制的に帰されてしまい、現在はこの小屋での生活になってしまった。地元の警察から「信頼できる」と保証されていたため、彼女、彼女の夫、そして子供たちの滞在が許されていた。
雨の中、質素な店内と絶望に満ちた声すべてが、彼女の話を特に忘れにくくした。その話の内容というのは、まだ大したことではなかった。私がよく知っている中国内地の200軒以上のレストランのうち、少なくとも3割がスタッフ、顧客、またはその両方の減少により既に閉店していた。
“この今、あなたのことさえ知らない”
圧倒的な絶望と共にいるのは圧倒的な恐怖であった。常に盲目にノルマ達成を行うだけの性質を持つ人々の監禁と法的保護の皆無さ、且つ弁護士たちが新疆の拘留者の無実を訴える弁護を禁止されたことを考えれば、少しも驚くことではなかった。現実に動いているシステムを目の当たりにした私は、その驚く速さと残虐さを裏付けできる。
一番に忘れ難いと思っているのは、カシュガルの街を歩いて帰宅したある夜のことだ。反対方向を歩いていたのは、中年のウイグル人夫婦と20歳位の息子の三人家族だった。父親は奥さんと息子に支えられ、酒に酔っていて腕を振り回していた。そこに警察のミニバンが現れると、妻が夫に静かにするように言ったが、きかなかった。そして警察のバンが止まり、そこから5〜6人の警察が飛び出して、質問もせず、ID提示も求めずに男とその妻を捕まえて立ち去っていった。息子一人だけが街に残された。このすべてが2分も続かない間に起こった。
中国内地では、より静かだが同じぐらい陰険な出来事を目のあたりにした。レストランの若い男性スタッフがリラックスして一日を過ごしていると、警察から新疆の故郷にすぐさま戻れという命令を受けた途端(新疆まで3〜4日間の列車の旅になる)、不安の眼に変わった。ある時、一人のシェフがこれから働けるレストランはあるものか、と尋ねてきた。彼は2ヶ月前に新疆から出る許可をもらっていて、既にいくつかのレストランで就職を試みたがどれも上手くいかなかったそうだ。彼は私の助言により、沿岸の大都市行きの列車のチケットを翌日に購入することを決意した。しかし、その話をした3時間ほど後に、彼は故郷の警察から電話を受けたと連絡して来た。彼がまだ安定した仕事につけてないのをいいことに、できるだけ早く帰郷し、「再び許可を得る」ことが求められていた。そのことで、彼が翌日に乗った列車は、新疆行きの列車となった。
彼のようにお金もコネもない人たちの運命は、絶対的にシステムの慈悲に左右される。しかし、富や名声でさえも助けにならないことは時間が証明した。私が訪れた比較的成功したレストランのオーナーでさえ、強制的に荷物がまとめさせられ、新疆に無期限に帰された。
いくつかの場所では、ゲシュタポ(ナチスドイツの秘密警察)的な要素が働いていることもある。義烏市に住んでいる間、ウイグル人の知り合いと歓談している時に、警察官一人が、彼もウイグル人だった、通りかかった。私たちは、話を中断し、彼が通りすぎるのをまって、後知人は話を続けた:
“実際、あのような制服警官は問題ない。逮捕はされない。気をつけなければならないのは、月に一回杭州からやってくるウイグル人と漢人からなる私服警察だ。ちょうど先月、数十人のウイグル人が彼らに逮捕されたばかりだ。”
悲しいと思わなければ滑稽に感じるであろう恐怖は、宗教的な名前に対してだった。新疆では、一人の友人が彼の”ハジム”という言葉が入っている名前を変えるために大変な想いをした。最近まで政府が子どもにのみ適用していた手続きだった。ある時、ある店主が私の読んでいたウイグル語の本を手に取り、おもむろにページをめくり始めた。そしてそこに「ハジム」という字を見つけ、これを持っているだけで、5年から10年の刑になるとそっと話をしてくれた。
WeChatから外国人の友人や連絡先を大量に削除するなど、オンライン上にもこの恐怖が表れていた。一人の友人は、400人以上の名前を削除したと言っていた。もう一人は、私の名前を追加したり削除したり等定まらなかったが、最終的に私の名前を削除し、一緒にいたチェットグループからも残らず退けた。海外に在住あるいは留学しているウイグル人は、自分の名前ですら新疆に住むウイグル人の友人や親戚から削除されたと話していた。電話をかけることの危険さも加わって、この怖ろしい時代に人々が互いを支え合っていくことが不可能になった。
2017年のある時、私の名前を削除した新疆の友人にどうしても会いたくなって、努力したことがあった。友人のネットワークを利用して、彼に会う時間と場所を設定し、彼と会うことができた。いま考えてみると、会わなかった方が良かった。彼とのランチは信じられないほど静かで気まずいものだった。話したいことが沢山あるのに、何もかもタブーのように感じられ、何分もの間ただただ座っているだけだった。誰かに監視されているようには見えなかったが、友人は始終心底から心配していた。私が取り組んでいる本のサンプルを彼に渡したときも、彼はチラッとみただけで、ページをめくることもしなかった。共通の知人が元気でいるかと尋ねると、その人のことは“知らない”と答えたあとに続けた:
“この今、あなたのことさえ知らない。”
彼は今にも泣き出しそうになっているように感じた。正直に言うと、私もそうだった。
南新疆にいた時に、ある友人が私を彼の店に引き入れて、外国人と話すのはもう安全ではないと短い言葉で伝えてきた。その後の数週間、私たちはボディーランゲージで挨拶し、そのうちに視線を交わすだけになり、最後にはお互いを完全に無視するようになった。
一部の人々は、恐怖を植え付けられたかのような、訓練された反応をみせた。中国内地にある小さなレストランのオーナーの小さい娘にお父さんがどこにいるのか、レストランに来るのかと普通に聞いたのだが、彼女の答えを聞いてショックを受けた:
“私たちはここに善良なビジネスをする為に来ています。なにか悪いことをするために来ているわけではありません。”
以前、中国東部のあるレストランのマネージャーと座って歓談していたときのことだった。その話題を避けることができなかった私は、“間違った”本を所有したことによる明白な犯罪のために10年間の刑が宣告された友人のことを例に挙げ、新疆の状況がどれだけ抑圧的になってきたかを話した。“刑務所”と私が言ったとたんに、彼の目線は後ろのテーブルをさし不自然な動きをした。
「ここに警官がいます」とささやき、彼は立ち去って行った。
他のある場所では、新疆の状況についてレストランスタッフとかなり率直な会話をしたが、「壁にも耳がある」から話題に気を付けようと注意を促された。
また時には、恐怖が表面の直ぐ下にあった。のんびりとして、いつも自信に満ち溢れている翡翠販売者のことをいまだに思い出すことがある。彼が一度私に近づいてきて、彼らしくない緊張した様子で、共通の知人のひとりを最近見たかと聞いてきた。この二日間見ていないから、その知人の身に何か起きたのではないかと心配していると、話した。幸いにも、今回は悪いことが起きてないまれなケースだった、私たちはしばらくしてその知人と会うことができた。
「それで、わが民族に何が起きているのか、知っているの?」
多くの人にとって、新疆の状況は、その存在が暗に認識されているが、そのアイデンティティが頻繁に隠され、ネズミに偽装している象のようである。話題を避けられない場合、例えば誰かが知らずに、新疆か、収容所か、または刑務所に送られた人について尋ねた時に、婉曲な表現を使用するのが常であった。
最も一般的な言葉はyoqであり、ここでは「いなくなった」または「いない」と訳すことができる。adem yoq(「人がいない」)というフレーズは、この一年に一番多く聞いたものであり、一般的にスタッフ、顧客、人々がいないことを表すために使用されている。故郷に戻ることを強制された人々(故郷での逮捕、収容所送り、又はもっと酷い扱い)を言うときに、彼らは「家に帰った」と言うのが典型的な表現である – 具体的には、中国内地の人々は「新疆に帰った」、北新疆にいる人々は、「カシュガルに戻った」とも言う。
ある人について何が起こったのか尋ねていた時に、「私のお話が分かりませんか?」と友人に聞かれた。「その男はyoqです。彼には今、別の家があります」
自然なことですが、強制収容所は「強制収容所」と呼ばれることはなかった。代わりに、そこに入れられた人々は「勉強に行っている」(oqushta / oginishishte)或いは「教育に行っている」(terbiyileshte)と言われたり、時には「学校に行っている」(mektepte)とも言われる。私は一度、年配の人が、“友人は「大学に行っている」(dashode)”と言ったのを聞いたが、一般に使われているイディオムではない為、相手に理解されなかった。
同様に、新疆の全体的な状況について話すとき、人々は「抑圧」のような言葉を使用しない。むしろ、彼らはweziyet yaxshi emes(「気運は良くない」)と言ったり、新疆を非常にching(「厳重」、「厳密」)と表現する傾向がある。
しかし全ウイグル人の心の中に、問題意識が普遍的に存在していることは疑いの余地もない。あるレストランを訪れた時に、アルバイトのウェイトレスの学生に私が新疆に住んでいたと話すと、彼女が聞いてきた:
「それで、我が民族に何が起きているのか、知っているの?」
別のときに、同僚と座っていたレストランのスタッフが、この全てがどれほど馬鹿げたことなのかと冗談交じりに話していた。連れて行かれた家族や親戚を10人近くリストアップした後に続けた:
「私の親族の中で残っているのは私だけだ!」
3軒の違うレストランそれぞれで、料理人は、南新疆の村には「人がいない」(adem yoq)とつぶやいていた。一人のオーナーは、大金の投資をして新しいビジネスを始めたのに働く人がいなく、どれだけ損をしているかと嘆いた。一人のマネージャーは、私が訪れたウイグルレストランのどれぐらいがまだ営業をしているのかと尋ねた。
中国内地の古い友人と歓談しながら、政治の話題を避け、もっと普通の、平凡な日常的なものについて話をするよう慎重になったときに、問題がどれだけ普遍的なのかがわかった。問題の話題を避けることは不可能であった。午前中に何をしていたのかと彼に尋ねると、彼はその都市のウイグル人全員が出席しなければならないという政治的会議の話をしてきた。今も暇な時には本を読む努力をしているのかと尋ねると、警察は中国内地でもそれを取り締まっていて、どんな本を読もうと当局からの疑いと余計な警戒を招くだけだと話してきた。彼の将来の抱負を尋ねると、美味しいトルコ料理のシェフになって自分のトルコ料理店を開くことが理想だ。残念なことに、中国政府はウイグル民族と他のチュルク系民族又は海外のイスラム教徒の人々とのいかなる接触も阻止し、破壊し続けている現状では、それだけで新疆で監禁されることになるだろと話してきた。
それでも彼には、起きていることを直接批判する準備はできてなかった。
“その話題について話すとき、私たちはすべてが良いと言う”と別の料理人の知人が話をまとめてくれたが、一週間前に彼もyoqとなり、”家に帰った”ことになった。
“警察官を見ると、何で見ていると聞かれ、床を見ていると、何で床を見ているかと聞かれる”
いくつかの場面で、何らかの理由で絶望の底まで到達し、何でも話したがる人たちとあったことがある。このような場合、自己検閲の要素はほとんどみられなかった。
最初の例は、昨年の秋にカシュガルで、制服姿のバウアン(保安:公安警備員でほとんどウイグル人、南新疆の市町村にいる最低ランクの制服姿の権力者)にティーハウスに招待されたときだった。彼はその午後オフで、要請された健康診断から戻ってきたところであった。
続いた会話はやや緊張が走るものだった。彼は私にウイグル人の歴史のなにを知っているのか、ウイグル人を人としてどう考えるのかと聞いてきた。後者は、私が新疆で何年にもわたって何度も聞かれた質問であり、ウイグル人のアイデンティティについて何らかの外部的検証を探る方法として私に投げられたことが多かった。彼は続けた、「私たちは悪い人ですか? 私たちは抑圧の対象とされる民族ですか?」本当を言うと、私はこの質問に答えることが決して好きではなかった。どう答えれば良いのか分からなかったし、政治色の強い質問だと常に感じていたからだった。それで、バオアンの質問には、いつもと同じように答えた:”ウイグル人は、他のどの人たちとも同じです、善人もいれば、悪人もいます。”
しかし彼は、この曖昧な答えに満足することはなかった。
「あなたは本当に思っていることを隠している」と彼は迫った。”周りを良く見てください。あなたには(ここカシュガルで)それが見えているはずです。私たちは破壊されている民族です。」
私は基本的に中国の制服姿の人々を信頼していない。それはウイグル族、漢族、または他の54の民族のどれであれ。後に彼らの上司に報告されるだろうから、私はいかなる政治的見解を述べることはしなかった。しかし、私は今になって、あれが絶望の真の瞬間だったと分かり、彼が言っていた言葉が現実のことであると知らされることとなった。彼の姿は数日後に消え、彼を見ることは2度となかった。
私の心の中に永遠に残るもう一つの出来事は、中国内地でかつて数回訪れたことのあるレストランを再び訪れた時のことだった。たった一人のウェイターを除き、古くからのスタッフ全員がいなくなっていた。私をみた彼は直ぐに手を休め、私の正面に座って話し始めた。私がカシュガルの街から追い出された話が彼を誘発したようで、カシュガルの状況について沢山話し始めた、しかもその全てがタブーな内容だった。
彼は、「何百万人ものウイグル人」が収容所に捕らえられていること、食事に15年もたっている古米が使われていること、そして彼らがどんな殴打を受けているのかを話してくれた(古米の主張はまだ検証されていないが、証言者により収容所内の栄養不良と暴力の両方が確認できている)。他にも、中国内地にいるウイグル人達が政治勉強会議に出席しなければならないことや、そして第19回党大会の内容に沿った試験を受けなければならないこと、そして、不合格者は新疆に戻されることも教えてくれた。中国は以前弱い国だった、彼は続けた、しかし大国となった今は、ウイグル人に対して全面的攻撃に出ている。米国がグローバル・マグニツキー法の下で中国に対する措置を取る可能性に関する話を彼にしたが、彼は、米国は「米国に有益の」ことしかやらないので、米国がウイグル人を助けてくれることは期待できない、と返してきた。当時のオバマ政権は彼にとっては無力な存在であった。彼はまた中国内地の地元当局がウイグル人を対象にした厳しい監視と、任意の口実を使った逮捕または刑の宣告があることも語った。
「そこのカメラが見えますか?」まさに私たちを撮っているであろうカメラを指差しながら、彼が聞いてきた。「外国人がここでアパートを借りるとき、カメラの監視がない場所を借りることができるが、ウイグル人がアパートを借りるときは、カメラ付きの建物しか借りることができない。警察が私たちに話すときは、すべてに対して疑いをかけてくる。’タバコは吸いますか?アルコールは飲みますか?’吸わない、飲まないと答えると、彼らはなぜだと聞いてくる。礼拝をするかとも聞いてくる。そして海外に行きたいか、以前パスポートを申請したことがあるのか、或いはパスポートを持っているかと聞いてくる。警察官を見ると、何で見ていると聞かれ、床を見ていると、何で床を見ているのかと聞かれる。私たちが電車に乗るときは、駅を出る前に何時も通らなければならない別の部屋がある。そこで、私たちは、書類がチェックされ、尋問を受けることになっている。
後に偶然にも、訓練中の警察官の一人が、意図せずに厳密な監視体制の存在を裏付けてくれた。私が自分の入っているホテルの直ぐ外にいるにも関らず、パスポートを持参してないということで地元の駅につれていかれた。その途中で、私はイスラム教徒のレストランで食べるのが好きであることを口にした。それを受け、私が新疆に住んでいたことを知らない訓練生が続けた:
「ここ中国にも我らのイスラム教徒がいる。彼らは新疆から来ている。私たちはここにいる彼らを本当に非常に厳密な監視下においている。」
ウェイターの友人一人は、ウイグル人の間に、またウイグル人のレストランスタッフの間にも互いへの不信感があると話してくれた。それは恣意に行われている拘留と個人のレストランでさえ拘留ノルマの対象になっている事実、つまり一定のウイグル人スタッフが近いうちに拘留される運命であることの産物だと推測ができた。
何の装飾もないレストランの中にある二人用のテーブルで、淡々と私に話している彼のことを心配した。しかし彼がリスクを完全に分かっている、又は、彼も直に拘留されることを察知しているように感じられた。私が思うには、漢民族は勿論、ウイグル人や他の少数民族にも信頼が置けない、外国人と言っても新疆で何が起きているのか単純に知らない、或いはウイグル人が誰なのかも知らない状況の中で、私は彼が実際にこの問題について話すであろう千人のうちの一人にすぎなかっただろう。
1週間後に別の取締りが行われ、ここにいる多くのウイグル人若者が強制的に帰郷させられた、彼もその一人で、”故郷に戻った”。
“人々は、今が本当に安全になったと感じている”
私は相手の絶望感をはっきりと感じた3番目の会話もあった。有名なオーナー、マネージャー、そして優れた経歴を持つディレクターの彼は、最近レストランを開いたが、スタッフ全員が新疆に帰された為、現在は妻と二人だけの運営に縮小せざるを得なかったという。それはまるで壊れた人に話しているような感じだった。
「だれも残っていない、誰もが刑務所にいる」、最近どうですかと挨拶した私に返ってきた彼の言葉だった。
しかし、今の政策が最終的に功を奏していくと彼が述べたとき、私たちのこれまでの非常に正直な会話が、とても皮肉なものとなってしまった。彼が言うには、ウイグル人たちは、伝統的に良い教育を受けていないから、今拘束されているウイグル人たちは、“再教育”を通じて、そのスキルや北京語能力が向上し、その後現代的中国において成功者になるというものだった。
確かに、私が話した人の誰もこの状況について良いことを言っていないというと正確ではなくなる。たまにいくつかのポジティブなコメントをもらったことも確かにあった。しかし、私の主観を事実として伝えてしまうリスクを抱えながらも私が伝えたいのは、度々の自己矛盾とその言葉を裏付ける証拠の欠如で証明されているように、これらの大部分が私に与えた印象は認知不能、ストックホルム症候群と自己妄想のミックスであった。
私がまだ新疆の新しい現実を理解し、それを自分自身で受け入れるのに苦労していたとき、最悪の “乱暴な目覚め”の瞬間の一つが、新疆の観光業で働いていた友人とあったときだった。ちょっと歓談した後、私は上空のあるゆるところを示唆する感じで、市内のいたるところに極端に設置してある監視装置に触れました。彼もまた、新しいシステムについての不満を持っていた。彼の電動スクーターで2~3キロ走るまでにIDチェックの為7回もとまらなければならないことや、彼のIDがここの町のものではないことから、チェックにかかる時間が毎回延びていったことを話してくれた。それでも、彼はすぐに付け加えた:
「人々は、今が本当に安全になったと感じている。以前は、娘を学校に一人で行かせることを心配していたが、今は心配する必要がない。」
準備されたかのような言葉は私を驚かせた。彼は続けて、これは国民をテロから守るためのものであり、ロシアと米国が急いでISISを撃退してくれれば、このすべてが終了する、とも言った。しかし、テロリズムはこのように力では打ち負かされないという私の意見を述べたとき、彼はそれにも素早く同意した。
いくつかの機会に、中国共産党への強い、おそらく純粋であろう支持を目のあたりにしたこともあった。私が訪ねた中国東北にあるレストランでは、習近平の本(The Governance of China)を読んだのかとオーナーに聞かれた。彼が携帯電話で読んでいたニュース記事では、本が世界を席巻していると書いてあった。私は、いいえ、そうではない、と反論した。そうすると彼は私にウイグル語のニュース記事も見せてくれた。そこには白人男性が本を見ている写真が載っていた。彼にとっては十分な証拠のようだが、ニュースソースが信頼できるものではないと私は主張した。私の「人気がない」意見は私を彼と彼の妻、そしてレストランのスタッフの何人かと対立した立場に置き、彼らと気まずい雰囲気の中で分かれることになった。以前同じオーナーは、大規模なウイグルレストランに投資するのは現状ではあまりにも危険であると話していたが、それでも彼は習近平の施政が“これだ!”と親指を大きく立てて言っていた。
別の都市にあるレストランの友人は、地元警察がウイグル人に対して行っている恣意的な査察についての彼の不満を私に話してくれた。個別の警察官が彼等が法律であるかのように(なにをやっても罪に問われない)行動していると話しているときに、彼がどんなに怒っていたのか、いまだに覚えている。しかしそれにも関らず、彼は政府の上層部が良いと付け加えた。
以前新疆にいたとき、ある年配の店主が、カメラはどこにでもあり、”盗人がいなくなった”から、商品を守るために強く警戒する必要がなくなったという事実を賞賛していた。その後私たちは話題を彼の中国内地にいる息子に移した。私は、彼が新疆にではなくそこにいるのはいいことだと話し、そこにとどまったほうがもっと良いことだと彼に言った。老人は満足そうに笑った。
「はい、分かっているね。息子は本当にそこに留まるべきだ」
私が去年秋に新疆でお話しをした旅行中のビジネスマンは、彼のWeChatに私を追加することが安全なのかと尋ねた理由を理解していないようだった。私は彼に、静かに、そして婉曲的に、「気運は良くない」(weziyet yaxshi emes)と言ったとき、彼は頭を振って、それについては知らなかったと。それは稀で、そしてなぞめいたことだった。しかし、今年もう一度彼を見たとき、ビジネスの為の南新疆への旅はもはやないと言っていた。すべての町が空っぽ(adem yoq)で、ビジネスがなかったと。北新疆で商運を試みるつもりだ、と彼は言った。
記憶に残っている滑稽な事例ですが、中国内地のレストランで新疆の政策の他のウイグル人たちへの「厳しさ」を論じていたある翡翠売りが、それらの政策を普通に賞賛した後に、「少し度を越えているかもしれない」と付け加えたことだった。
滑稽というより悲しい事例ですが、第19回党大会の時に行われたオンライン投稿のディスプレイに、北京語がほとんど話せないウイグル人の友人が突然、完璧な北京語で習近平と大会を賞賛する長いメッセージを投稿し始めたことだ。数ヶ月後、私はまた、自分の名前を用意された北京語或いはウイグル語の声明文に入力するだけで簡単に“発声亮剣”できる(「自分の立場を明確に見せる」、文字通り「声に発し、剣を光らせる」)WeChatアプリがあることを聞いた。声明文では、社会主義の核心的価値を維持すると約束した共産党とその指導者への忠誠を誓い、過激主義に反対しながら「民族調和」を支える決意が表明されていた。生成された画像ファイルは、忠誠心の表明としてユーザーのソーシャルネットワークに簡単に投稿できるようになっていた。
私が中国内地で訪れた多くのレストランでは、忠誠心の表明がもっとも視覚的であった。ウイグル人のレストランは、中国国旗で覆われていて、時にはテロとの闘いを宣言する赤いバナーもあった。時には、インテリアにも小さな国旗や習近平の写真(特に伝統的なウイグルの家に)、習近平の顔が描かれたお土産プレート、中国の全ての民族が「ザクロの種と同じく緊密に」を呼びかけたような「民族調和」のスローガンも飾られてあった。いくつかのレストランでは、ウイグル語に訳された習近平と党に関する書籍がフロントカウンターにおいてあるほどだった。
このようなデモンストレーションが自主的か、法律で義務化されているかどうかを尋ねたことはなかったが、中国の普遍的検閲と同じように、それは両方のミックスであると推測した(つまり一部は現状を見越した上で,一部は強制されて)。少なくとも1つの例では、レストランで働いていた友人が、それは単なる慰撫であると教えてくれた。彼がもっとも「それで何か!?」という眼差しで見ているようだった。別のレストランでは、警察がアルコールの販売を命じたと言っていたが、彼の顧客はほとんど漢民族でお酒の需要がある為、「助け舟」として取り入れたと話してくれた。漢民族は長居しない割りにお金を多く使ってくれて、泥棒や犯罪者であったかも知れない一部ウイグル人のように面倒なことにならないと。
名前だけ(この場合艾克丹・艾克拜尓)差し込まれた北京語とウイグル語の両方で用意された発声亮剣の声明文。北京語版声明の翻訳:「私は中華人民共和国の国民です。私は中国共産党の指導者を断固として支持し、意識的に法律と憲法を守り、政府の法律や規律を厳格に遵守し、常に党中央党委員会の見解と行動との一貫性を維持します。私は社会主義の核心的価値を受け入れ、積極的に民族調和を守ります。私は、宗教的過激主義の広がりを制限し、私の家族、私の親戚、そして私の周りの人々を監視し、「三つの悪」との戦いに関して明確な立場を維持します。私には宣言する勇気があります、私は敢えて自分の剣を光らせ、社会の調和と安定を、自分の血と命をかけて守ります。
中国内地の主要な都市部で行われている、ウイグル人犯罪者の撲滅シーンが、私が話した人たちの一部が賞賛した政策の「ポジティブな外部効果」であった。しかし、それでも私が感じるのは、このような賞賛が決して公平な評価ではなく、話し手が「そのレストラン、又はその街の悪いウイグル人」と距離を置く方法であり、彼等と仲間にされる危険を冒したくないものであった。そのような判断で多くの正直な人々が一掃されたのであろうことは、二次的なものだった。
“これはイスラム世界への試練です”
大規模な囚人のジレンマゲームでは、服従と宥和が、そうでない同胞を犠牲に、少数の人々を収容所や刑務所から救ったように見えた。お金、人的つながり、漢民族の配偶者、中国の公式教育などは、決して説得力のある保証ではないが、同様に役に立つように見えた。最後に、パスポートが没収されたり故郷に戻されることを避けるために、警官や役人に賄賂を贈ることは、私が話した人の何人かが採用した方法であり、絶望的で逃避不可能と感じるシステムによくある亀裂を表していた。
しかし、大多数のウイグル人にとっては、監禁と監禁されることへの恐怖が日常生活の避けられない事実となっていて、影響を受けた人々が不条理な恐怖に怯えながらも、ある種の正常さを探し求める上で、新たな対処の仕組みを必要としていた。
ほとんどの人は、単純に耐え忍び、”とぼとぼと一緒に歩く”ことによって対処していると言える。行方不明の親戚や経済的な喪失、そして自分たちもいつか行方不明になる可能性があるという恐怖にもかかわらず、多くの友人や知り合いは彼等の最善を尽くして生計を立て、それを続けていくことにだけ集中していた。痛みを心に抱えながら、彼らはニンジンを切り、ビジネスを営んで、商品を売る。多くの人にとって、今や最も重要と思われていることは彼等の子供たちの未来である。子供がいない人にとっては、単純で具体的な個人的な野心が存在する可能性もある。あるインテリの友人は仕事を続け、アパートを購入するのに十分な収入を得ることを望んでいた。その彼は最近、市内を遠くまで歩いて散歩することにもはまっていると話してくれた。
従弟が刑務所に入っている大学生の若い友人が、一度私と一緒に座り、今の漢民族のクラスの中で彼が唯一のウイグル人学生であることを話してくれた。
「時にはウイグルの民話や神話を北京語に翻訳し、クラスメートとシェアする」と詳しく話した。”彼らは気に入っているようだ”
彼の今の目標は、インターンシップに受かることと、その後勉強を終えて、やがては仕事を探すことだった。
特に記憶に残っている友人の一人は、中国内地で小さな店を営んでいた。そこでは最近、地元の警察が「中国語のラベルがない」ことを理由に全棚の輸入品を没収した。彼は、体調が悪い為閉店しなければならないと伝え、多くの商品が没収されることが避けられたと話してくれた。棚の半分が空で商売も急激に減っているのを見て、閉店するのもそれほど遠くはないと彼は考えていた。当局の政策が若いウイグル人たちをどう無差別に狙っているのかを指摘し、まだ若いにもかかわらず、自分は恐れていないと話していた。
「私は人生で既に多くを経験した。もし彼らが来て私を逮捕すれば...それでよかろう。何であれ起こることは起こる。ここのウイグル人の多くは、恐怖のあまりWeChatに外国人を追加することさえもできない。しかし、私は気にしない」
同時に、彼は完全に諦めているわけでもなかった。現状を一般的に話すとき、彼はより広い、より壮大な見方を取っていた。
「これはイスラム世界への試練です。シリアや他の場所で何が起きているのかを見ても、イスラム世界全体が試練を受けています。アッラーは起きていることすべてが分かっています。私たちはこの試練を乗り越えなければなりません。」
ウイグル人がお祈りをすることも禁止されている中で、彼は、椅子に座って脚を伸ばしたりして密かに祈ったり、歩道に並ぶ木の下で祈ったりするなど、当局が気付かない妥協案を見つけたと話していた。
しかし、どれもが勇気のあるものではなかった。他の人にとって希望は単に必要だから存在し、その裏づけはオプション的なものだった。私が話したウイグル人の多くは、「物事はすぐに良くなる」と話し、その論理的根拠を提示することはなかった。「既に何ヶ月も収監されているから」、友人や親戚はすぐに解放されるだろうと思う人もいた。一部は、「テロリズムが撃退されると」状況が正常に戻ると思っているようだった。既にスタッフの大部分を失っている中国内地のウイグルレストランでの話し合いの中でも、スタッフは「教育を終えてすぐに戻ってくる」と言っていた。
「そうでなければ、ウイグル人のシェフがいない中で、レストランが運営できないでしょう?」
しかし、これらの楽観的な声に対しては、時間は過酷であった。月が経って年になり、拘禁された人々はまだ拘禁されたままで、レストランは更に多くのスタッフやクライアントを失い、状況は悪化し続ける一方だった。
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時々私はまだ、この悲劇が悪い夢であると思いたい。去年のある時、自分自身に言い聞かせていた、私は間違いなくウサギの巣穴に落ちている、そしてまだ出口が見つけられていないと。
目を閉じると、自分が再びカリム氏のレストランで座っていた。みんなが生きていて、幸せにいる。カリム氏はテーブルからテーブルに周り、顧客の様子を伺ったり、時には玄関に出向いて、入ってきた顧客と握手していた。彼の妻はレストランの中で走り回り、食事を運び出すよりも早いペースでオーダーを取っていた。彼らの息子と娘は、それぞれ幼稚園生と小学生で、助っ人というよりも足手まといになっていた。一人のシェフは、キッチンの渡し口から料理をスライドさせて通し、スピーカーで大きな声でアナウンスしていた。カリム氏の娘はやはり手伝うことを決め、母親がしなくて済むように、ボウルを顧客に届けようとし、ボウルを違うテーブルに持っていく…
「聞いたか?」地元のトレーダーであるアブリズ氏は、一般の顧客に尋ねた。「アブドウェリは今日パスポートが取れた。彼は来週、米国のビザを申請するつもりだ」
「古いニュース!」と別のテーブルのトレーダーである、メメット氏は言った。「私の友人10人が先週パスポートを返してもらった。彼らはとうとう規制を緩和し初めている。ウイグル人は再び海外に行けるようになった!」
「次は何だ?」カリム氏が皮肉った。「ウイグル人大統領か?!」
みんなが爆笑した。しかしその後光が消えて、私に聞こえてくるのは涙にむせぶ声だけだった。
Gene A. Buninは、科学・数学とウイグル語の研究に興味を持つ独立した学者、翻訳者、作家である。彼は過去10年間、新疆ウイグル自治区で話されているウイグル言語を研究しており、その5年間はその地域に住んでいた。